Museum of Niigata Univ. Phys. & Eng.

長岡高等工業学校および長岡工業専門学校の沿革

第一次世界大戦の直後,時の政府は高等教育の拡充に力を入れ,各地に高等学校や高等工業学校を新設した。例えば新潟高等学校は,大正八年に設立されたものであるが,高等工業学校についても,大正九年には金沢・横浜・広島にこれが新設され,同十年には神戸市に,同十一年には浜松・徳島にこれが設置をみた。長岡市はつとに中央のこの情勢を察知し,大正七年内務省および新潟県知事に対し,「高等工業学校設立に関する意見書」を提出し,設置のために必要な経費の地元負担を申し出るなど,設立の熱意を示した。その経緯については省略するが,工業都市をめざす長岡市の意欲的な誘致運動が効を奏し,大正九年同市にその設置が認められた。

設置場所については,草生津町・中島浄水場附近・袋町・悠久山・四郎丸の五ヶ所を候補地として選定し,文部省の実地調査を経た上,四郎丸町に決定をみた。敷地面積は一万八○○○坪で,すべて新潟県および長岡市の寄附によるものである。校舎の新築は大正九年から十二年までの継続事業として着手したが,大正十二年の関東大震災や予算の都合もあって,昭和二年まで延長され,総工費一五七万五○○○円を投じて完成した。なお,創立費として,県および長岡市より計四七万五○○○円の寄附を受けている。

一方,大正十二年九月一日,関東大震災が発生し,文部省は焼失,初代校長に予定された福田為造教授の勤務先である東京高等工業学校も全焼したために,一時本校の開設も危ぶまれたが,幸い同年十二月十日勅令第五○一号をもって長岡高等工業学校の設置が公布され,翌十一年福田為造教授が初代校長として任命された。ついで同月十四日文部省内に同校事務所が開設され,逐次任命された職員により,開講準備が進められ,翌年三月十日事務所は長岡市四郎丸に移転した。

ついで三月十八日より二十一日まで,第一回入学者選抜試験が本校と東京物理学校において実施された。入学志願者数は,電気工学科一三四名,機械工学科七二名,応用化学科五九名で,三月二十六日電気工学科四○名,機械工学科三七名,応用化学科三六名の入学許可が発表された。そして四月十二日待望の第一回入学宣誓式が挙行され,ここに長岡高等工業学校の歴史の第一頁が開かれたのである。

設立された長岡高等工業学校は,全国で第一六番目の国立高等工業学校である。福田校長は教育の基本方針として,基礎学の重視を標榜すると共に,ローマ字の採用,色盲者の入学許可,科学工業博物館の設置など,新規に富む運営方針をとり入れ,学生にも背広を着用させた。校舎も校庭も清潔に整備整頓され,今も校庭をいろどる数十株のどうだんつつじは,当時の努力と校風をしのばせる。

一方,設立当時の学科は,電気工学科・機械工学科・応用化学科の三学科であつたが,日本経済の発展にともない,工業技術者の需要が激増し,昭和十四年精密機械科と工作機械科が新設された。この二学科は昭和十九年四月,いつたん合併して機械科となつたが,昭和二十一年度より,精密機械科は再び分科として独立した。

この間大東亜戦争の勃発により,学園も戦時一色に塗りつぶされ,校名も昭和十九年三月二十八日長岡工業専門学校と改められた。生徒は軍事訓練,勤労奉仕に多くの時間を割かれ,遂には学徒動員によって戦場に赴くもの,工場で軍需生産に従事するものが続出し,多くの犠牲者を生む結果となつた。そして昭和二十年八月一日長岡市はB29の焼夷弾攻撃により,一瞬にして市の八割が灰燼に帰した。幸いにも校舎は道路一つをへだてて焼失を免れた。この戦争の時期を通じて,昭和十四年から二十年十一月まで,第二代目の校長として,坪井道三がその任にあたり,多事多難な学校運営に終始率先して辛苦を重ねた。その後任として山本純如校長が着任したが,一望焼野原と化した市内には,学生の下宿もなく,校舎の一部を仕切って宿舎にあてるなど,物資の不足と経済危機の中に,同校の運営には容易ならぬものがあった。

しかし,やがて世相も次第に落ちつきをみせ,折から起こった総合大学設置の運動に山本校長は率先して情熱を傾けた。

新潟大学二十五年史 部局編(昭和五十五年三月二十一日)p.749-p.755より抜粋


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(S.HARADA)